献血は自己肯定の近道
まず皆さんは、献血と聞いてどんなイメージをお持ちだろうか?
痛そう、出血怖い……など、どちらかというとマイナスなものが挙げられるだろう。
そして皆さんの中にも、街頭でプラカードを持った方が、「献血にご協力お願いします~」と呼び掛けているのを見たことがある人もいるのではないだろうか。
定期的に献血に通っている方ならまだしも、初めての方や数回しか行ったことがない方にとって、献血はなかなか敷居が高いのも想像できる。
特にコロナ禍で外出自粛となったこともあり、献血にご協力いただける方がかなり減っていると聞く。
わたしの元にも、献血の依頼メールが来た。
このように、協力したくてもできないジレンマから、今回は献血について書くことにした。
わたしと献血の出会いは10年前。18歳の頃まで遡る。
もともと父親が献血に協力的であり、地元のイオンに献血バスが来るたび献血に行っていた。
その影響からか抵抗もなく、自分自身も18歳の誕生日を迎えてすぐに献血した。
初めての400ml献血は、スムーズに終わった。
針の太さには驚いたが、見知らぬ誰かの助けになるかもしれないという希望が大きかった。
献血と聞くと、交通事故のときの輸血というイメージが強いかもしれないが、実際は白血病や がんなどの治療で使われるそうだ。
抗がん剤治療で免疫力が下がったときに輸血をすると、頬に赤みがさすような、そんな感じだと聞いたことがある。
大学に入学し、献血ルームに行ったことがきっかけで参加するようになったのが、学生献血推進協議会だ。
特にこの団体では「10代、20代を中心とした若年層への献血参加や認知」を目的としている。
わたしは大学入学から卒業まで、この団体でお世話になった。
街頭で献血参加を呼び掛けたり、献血のイベント等に自分自身も参加したりすることで、献血に対する意識がより高まった。
同時に、同じ志の友達も増えた。
血液というのは、今も人工的に作ることはできない。
昔は売血というのもあったようだが、結果的にお金目的となってしまい、必要な方に届けられなくなったとも聞く。
それにより、現在は善意のボランティアである。服薬や体調も自己申告だ。
また、血液は長期保存できない。
そのため、継続的な協力が輸血用血液を確保するのに支えられている。
献血のイベントなどを通して、白血病から復帰された方から「献血をしてくれてありがとう」という言葉を聞くたび、献血に関わってよかったと心から思うのだ。
大学時代に参加した献血のイベントで、「自分にとっての献血とは?」と何度か聞かれたことがある。
当時は「ライフワークです」と答えていた。
自分の人生を通して、できる範囲で貢献したいからだ。
趣味のひとつでもあるし、いまの服薬が終わったらすぐにでも協力したい。
少しの痛みと時間でどこかに助かる人がいるなら、今後も参加したいと思っている。
理由は同じ。
自分が少し我慢することで、助かる人が必ずいるのだ。喜んで捧げたい。
献血に協力するたびに、もしかしたら自己肯定の近道なのかもしれないと、考えるようになった。
血液だけとはいえ、その瞬間は自分自身を必要とされている。
どこかの誰かの体で、自分の血液が巡っている。
こんなに本質的に必要とされる機会は、なかなかないかもしれない。
もちろん、みんながみんな、献血に協力できるわけではない。
ヘモグロビン値が低い場合や、服薬や歯科治療後の場合、その他ピアスを空けたての場合など、できない条件もある。すでに輸血を受けたことがある方もNGだ。
それらはすべて、輸血を受ける患者さんの安全性のためである。
わたし自身が今も献血について発信する理由は、いつか自分や自分の家族が輸血を必要とする状況になるかもしれないから。
だからこそ、献血に協力できる間は協力したいと考える。
献血に協力できる期間は限られているし、健康じゃないと献血できない。
今、わたしの左腕にある献血痕は、なにかの勲章みたいに感じている。
もう一度言おう。
献血にご協力できる方、一歩踏み出してみてはいかがだろうか?
※記事中の献血についての内容に関しては、日本赤十字社の方に目を通していただいております。