「かがみの孤城」と言う名のセラピー
『かがみの孤城』(原作:辻村深月)の舞台が、千秋楽を迎えた。
その日は約1年半ぶりに、舞台を観に行った。
新型コロナウイルス感染症が拡大し、舞台やコンサートなどの娯楽は淘汰されたと思っていた。
自粛が長引き、遠征もできない。公演もオンラインのみ。
娯楽は不要不急ではないかもしれない。
舞台を観に行くのも、少し迷ってしまった。
それでも観に行きたい、目に焼き付けたいと思った。
書店で「あなたを、助けたい」と書かれた帯が付いた、印象的な単行本を見たことがある方も多いだろう。
2017年5月の発刊後、すぐに購入した。
翌日も仕事だというのに、日付が変わっても気にせずに読んでいた。本当に久しぶりの、一気読みだった。
そのときわたしを突き動かしたのは、彼ら・彼女らの戦いを見届けなければならない、という責任感がどこかにあったから、だと思う。
中学1年生の主人公・こころは、入学後すぐにクラスメートに目を付けられ、嫌がらせを受けるようになる。学校にも通えなくなり、居場所がなくなる日々。
そんなときに、自分の部屋の鏡が光り、鏡の世界へ連れていかれる。
そこには、同じ年くらいの男女6人がいた。
オオカミのお面をかぶった城の管理人・オオカミさまは、「願いの鍵を見つけられたら、願いをひとつ叶えてやる」と言い放つ…というストーリーである。
さすが本屋大賞受賞作、と思わされる展開。
デビュー当初から書き続けてきた中学生の葛藤。心理描写。
清々しい読後感。
それらはすべて読んでからのお楽しみだが、毎度 辻村作品は前作を軽々と越えてくる。
作中、学校に通えず引きこもっているこころの家に、クラスメートが足を踏み入れるシーンがある。
その出来事の描写に、リアリティーをひしひしと感じた。
小説を読んでいるだけのわたしまでも、その場にいるような気がするくらい、心が痛む。足がすくむ。
初読時には、こころや周りのメンバーの境遇を想像しつつ、脳裏には自分の小学6年生のときの記憶が蘇った。
あの頃は「キモい」と言われることが多かった。
習い事のピアノの帰り道、同級生とすれ違ったときに、ピンクのスカートを履いていただけで笑われた。
たぶん、理由なんかなくて、ただ標的にされただけだと思う。
隣の席の女の子に「毎日あんなに言われていて、よく毎日登校できるよね」と言われたことも、一生忘れないだろう。
笑ってごまかさないと、それを認めてしまうから。
いじめなんて簡単な言葉で表されたくない、それはこころも同じだったはず。
当時のわたしには、学校に行かないという選択肢を見つけられなかった。
だから、そうやって抗うこころや、周りのメンバーは立派だ。
舞台の話に戻そう。
舞台は圧巻、という一言に尽きた。
もちろん原作のすべてを網羅できるわけがない。
しかし、原作を読んだときと同じエッセンスのようなものはきちんと残っており、原作ファンであるわたしも感極まって何度も泣いた。
前述の、クラスメートが家に来るシーンは特に、舞台としての演出の力を痛感した。
読書とは異なり、舞台を観劇するのはある意味受動的である。
目の前で行われているものを観るだけだが、生のパフォーマンス・役者の気迫など、これ以上ないくらいに、心を動かされた。
そう。コロナ禍では、こういうインプットが圧倒的に不足していた。
だからこそ、舞台を観終わったあと、放心状態になった。
数日間は舞台のことをずっと反芻していた。
こんなにも心を揺さぶられることは、久しく無かったのだ。
この自粛期間に、わたしは鬱病になった。
今までに体験したことがない、無気力な日が続いた。
なんとか動こうと思って観に行ったこの舞台は、セラピーのようにわたしに力をくれた。
初読時とは異なり、今回は学校に行けずに家に引きこもるこころと、仕事を休んで家に引きこもる自分が重なる。
こうやって、似た境遇の人がいるなら大丈夫かもしれない。
この舞台は、コロナ禍のいまだからこそ、力強い舞台となった。
原作でも舞台でも印象的なセリフがある。
「大丈夫だから、大人になって!」というものだ。
この言葉に、大きな力をもらった。
わたしはきっと、明日も生きていける。
そんなセラピーのように心を癒す力がある小説であり、同時に心を潤す観劇体験であった。