不思議なホテルと涙活
※フィクションです。
1年付き合ったのに、いつかは結婚すると思っていたのに、あっけない幕引きだった。
失恋をきっかけに体調を崩し、そこから身の周りのものが音を立てて崩れていった。
そんな折、数年前に泊まったホテルの系列店からダイレクトメールが届いた。
「瑞季 様
突然のメール失礼いたします。
わたしはこのホテルの支配人・春田と申します。
当ホテルは、以前ご宿泊いただいたホテルの系列店でございます。
以前のご宿泊からお日にちが空いておりますが、いかがお過ごしでしょうか?
さて、このホテルグループはおかげさまで開業30周年を迎えました。
そこで、今までお泊りいただいたお客様の中から抽選で、1泊分の宿泊券をプレゼントさせていただいております。
抽選の結果、瑞季様はご当選されました!おめでとうございます!
当ホテルは、「涙活」をテーマにしており、皆様のマイナスな感情を振り払うべく、存在しております。
どうか、当ホテルで少しでも癒されていただければ幸いでございます。
それでは、瑞季様のお越しを心よりお待ちしております」
……最初は怪しいな、新手の詐欺かと思った。
しかし今は休職中ということもあり、幸い、時間はある。
そしてあのホテルの系列店なら……と思い、赴くことにした。
電車を乗り継ぎ、駅から直通で出ているバスに乗る。
辿り着いた先、見た目はただのビジネスホテルのようだ。
ホテルのエントランスで立ち尽くしていると、長身の男性ホテルマンがやってきた。
「瑞季様でいらっしゃいますか?」
「そうです……あの、ダイレクトメールをいただいて……」
「良かった。来ていただけたのですね。当ホテルへようこそ。わたくしは支配人・春田と申します。よろしければ、フロントのほうへどうぞ」
そうだった。ここは入り口だ。
フロントに向かうと、外見の無機質な感じとは異なり、どこかナチュラルテイスト。
木々のぬくもりを感じる。
春田に指示され、チェックインの手続きを進める。
このホテルの中には、大浴場やスパなどもあるらしい。
「さて、当ホテルのご案内をさせていただきます。ダイレクトメールにも書かせていただいたとおり、当ホテルのテーマは涙活。瑞季様のマイナスな感情を振り払うべく、存在しております。明日の朝、チェックアウト時には、このホテルにそのような感情は置いていってくだされば、わたくしどもは幸いでございます。ホテルに滞在中は、気兼ねなくお過ごしくださいませ」
涙活、か。そういえば最近は泣くことも減ってしまったなぁ。
「お部屋は203号室でございます。お部屋にカウンセリングシートをご用意しております。簡単な心理テストだと思ってご記入ください。その結果によって、瑞季様にぴったりな涙活をご提供いたします」
最初から不思議なホテルだと思っていたが、至れり尽くせりだな……
エレベーターで2階へ向かい、203号室に入る。
「え!?めっちゃ広いじゃん!!」
スイートルームのように広々とした部屋。
廊下からだと、普通のシングルルームくらいにしか見えなかったのに。本当に不思議なホテルだ。
そういえば……と春田さんの言葉を思い出し、ゆとりのあるチェアに腰掛け、サイドテーブルにあるカウンセリングシートに記入する。
なんだか、精神科で受けたチェックシートに近いものがある。
記入後、フロントに電話した。
「こんなに広いお部屋……いいんですか?」
「もちろん。ちなみに仕切りを動かすと狭くもできますので、瑞季様の使いやすいようにご利用くださいませ」
春田さんに指示されたように、部屋を少し狭くし、また部屋を少し暗くした。
映画館に近いような雰囲気だ。
ちなみにこの部屋には、シーリングライトとプロジェクターが一体型になっているものが設置されていた。
YouTuberがこぞって買っていたやつだ……! と気付けば独り言をつぶやいていた。
理想的な暗さ、雰囲気、そしてアロマの香り。
泣ける準備はばっちりだ。
しかし、春田さんに言われたことを思い出した。
「涙活、と何度も言ってしまいましたが、なるべく気負わないほうが良いです。泣くぞ! って思うと、逆効果にもなってしまいますので」
ゆるやかな気持ちで、観始める。
2時間ほど映画を観ていた。ボロボロと泣いていた。
そういえば久しく、泣くことがなかった。
失恋し、不眠になり、休職して。ここ数ヶ月の記憶はほとんどない。
そのくらい、何か心を動かされることがなかったのだ。
今の状況になる前はもっと泣いていた。
泣くことはマイナスに思われがちだが、わたしの中ではストレス発散の一環だった。
そのことをすっかり忘れていた。
泣き終わったらすっきりして、スパに行きたくなった。
そのあとはホテル内の施設を探検したり、フロントで春田さんのおすすめを聞いたり。
気持ちがだいぶ切り替わったあとは、ベッドでゆっくりと眠れたのだ。
最近は睡眠薬が手放せなかったというのに。
携帯のアラームで目覚める。なんて素晴らしい寝起きか。
チェックアウト時、春田さんに尋ねる。
「どうしてこのホテルは、涙活をテーマになったのですか?」
「瑞季様も同様だったかと思いますが、このご時世で皆様、お疲れになっております。わたくしども観光業も少なからず、影響を受けております。しかしながら、一ホテルの支配人としてできることを考えたとき、皆様に少しでもゆっくりと休んでいただける場所の提供だと考えたのです」
「ありがとうございます……だいぶ参っていましたが、元気になれました。泣くことができるって、幸せなことですね」
「それは良かったです。こちらこそ、ありがとうございました」
そう言って、春田さんは見送りの準備を始めた。
「あの、本当にお支払いは良いんですか……?」
「はい、お代金は結構です」
「あんなに良いお部屋だったのに!?」
「構いません。モニターのようなものだと思っていただければ」
来たときと同じように、不思議な気持ちになったが、そういうものなのか……? と言い聞かせ、エントランスまで送っていただいた。
「ご利用ありがとうございました。道中、お気をつけてお帰りくださいませ」
姿勢よく頭を下げた春田さんにお礼を言い、駅まで直通のバスに乗る。
どこからか、セミの鳴き声が聞こえる。
夏が始まったようだ。
きっと、これからも前を向いて生きていける。そう思えた出来事だった。