「書く」ために生きる

情報過多の現代、ありとあらゆるところにあふれている「活字」。

気付けば活字を読んでいるという、いわゆる「活字中毒」の方もいらっしゃるのではないか。


ご多分に漏れず、わたしもその1人である。

始まりがいつのことなのかもう思い出せないが、物心ついたときにはすでに活字中毒だった。


小説はもちろんのこと、日常生活でも活字を欲する。

例えばパンを食べながら、使ったマーガリンのパッケージに書いてある表記などを読んでいた。

今も、普段から活字を目が追いかける(追いかけてしまう)日々である。

 

「書く」ことで思い出す、最初の出来事は小学5年生のときのこと。

頭の中で物語を考えて、文章に書き起こしていた。

ある意味、黒歴史である。


当時のわたしの頭の中では、謎の妄想が繰り広げられていた。

そのフィクションにもならないような物語を作り、クラスの女子に回し読みさせていたのだ……。

やっぱり黒歴史だった。


どこから思い付いたかも思い出せないような、いま思うと恥ずかしい物語。

あれは中二病ならぬ、小五病だった。

 

あの出来事から15年以上が経った。


3年ほど前、とあるオンラインサロンで知り合った方たちと、書評サイトをスタートした。

今まではほとんど書評を書いたことがなかったが、手探りで進めながら、書評というものに触れていった。


話が前後するが、小学生の頃のわたしは、読書感想文が非常に苦手だった。

前述のとおり物語を書いて遊んでいたのに、感想文ではあらすじ以外の何を書いていいのかわからない。

自分が感じたことを並べたとて、読んでいない人には伝わらないのでは……?とも思っていた。


そんなわたしが書評を書きはじめて、ようやっとあの頃の自分にはできなかった「本の感想や良さをいかに伝えるか?」ということを、少しずつ理解していった。


もちろん書評は、もともとの小説などがなければ成立しない。

その作品を最大限に活かして良さを伝え、かつ自分の気持ちが文章に乗ったときは、堪らなく気持ちよかった。

いわば、ジグソーパズルのピースがピタッとハマったような気持ちになった。


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そんな折に見つけたのが、天狼院書店のライティング・ゼミである。

普段は書評を書いているがマンネリ化してきたこと、何よりきちんとライティングを勉強したい!と思ったことが受講のきっかけになった。


ライティングについて教わることはもちろん、非常に勉強になっている。

それ以外にも、今こうやって書いていることや頑張ったことを評価してもらえること、共有できる相手がいることも嬉しい。

そして切磋琢磨できる仲間がいることも、学生時代の部活のようで懐かしく感じる。

 

今ここで書いているように、自分の考えていることを文章に書き起こすことで、自分自身を客観的に見つめ直すことができる。

書き起こすことで、「わたし、こんなこと考えていたんだなぁ」と思うこともあるのだから不思議だ。


コロナ禍でうつ病になったときには1番の問題であった、頭の中でぐるぐるしていた思考。物事を反芻し、考えすぎてしまった思考。

逆にそれが、今のわたしのライティングの武器になっている気がする。

 

文章は、自分の分身みたいなものだと思っている。

悩んで悩んでひねり出した、分身。

だから、もっともっと感性も研ぎ澄ましていきたい。

人々の心に響く言葉を紡いでいきたい。


そのためにはきっと、インプットが欠かせない。

今まではただ「好きな小説」だったものが、「作家が丹精をこめて作った贈り物」のように感じられるようになった。

そして「好きな作家」は「憧れの人」になっている。

 

昔から、活字を読むことが好きで、文章を読むことが好きだった。

文章を書ける人に憧れ続けていた。

いつかは文章が書けるようになりたいと思っていた。

その夢に近づけるのが、天狼院書店のライティング・ゼミなのだ。


せっかくその夢に近づくチャンスを手に入れているのだから、このライティング・ゼミを通してどんどん学び、吸収していきたい。

 

いま、わたしは「書く」ために生きているのかもしれない。

そう思えるほど、ライティング・ゼミでの課題になりうるものを、日常の端々で見つけることに楽しさを覚えている。


今すぐはネタにならなくても、いつかは過去の自分に助けられるだろう。

そうとらえると、日常はライティングのネタの宝庫なのだ。


日常の出来事を見つめ直し、自分自身と向き合うこと。

そうすれば、何気ない日々も輝くと思う。