名前に対する一考察~名は体を表す?~
親からもらう最初のプレゼントは、名前だと聞く。
それを知ったときにはロマンティックだと思ったが、そういえば過去には、自分の名前について悩んだ時期もあった。
そんなことを思い出しながら書いていく。
昔は、すみれという名前が嫌いだった。
同級生にも数人しかいない、ひらがなの名前。
母や従姉妹は同じくひらがなだが、周りを見渡すとみんな漢字の名前。
何でわたしだけ?と思うことも多く、仲間外れのような感覚になった。
小学生の頃、宿題で親から名前の由来を聞くことがあった。
どうやら母が出産前に、植物図鑑を眺めていて「すみれ」を見つけたそうだ。
すみれの花のように、強くしなやかに生きてほしい。そんな感じの由来だった気がする。
すみれの花はかわいらしい花で可憐というイメージがあるので、以前は名前を褒められるたびに「名前負けなんです~」と言っていた。
謙遜ではないが、なんだかむず痒い気持ちになったのだ。
野山や森のひっそりと咲いているイメージがあったが、いまの季節に街中でよく見るだろう。
歩道の脇、ガードレールの下など、身近な場所にいる。
調べてみると、すみれという花は種類が多いそうだ。
みんなが春、頭上の桜に見とれている間に、足元で咲き誇っているのだ。
最初は微妙だと思っていたが、何度も聴くうちにハマる曲を「スルメ曲」という。
その意味で定義すると、わたしの名前は「スルメ・ネーム」だったかもしれない。
年を重ねてから良さに気づいたのだ。
色としても「すみれ色」とは青みの強い鮮やかな紫色を指す。
大人になるにつれて、その色もどんどん好きになっていった。
大好きな小説に、『子どもたちは夜と遊ぶ』(辻村深月著/講談社文庫)というものがある。
そこで登場する秋先生が「自分自身が親からもらった名前。それにちなんだ言葉や事象には、人は敏感になって、興味を惹かれるものです」というシーンが印象的だ。
まさしくわたしがそうだった。
どんどん自分の名前に興味を持ち始め、気づいたらすみれモチーフのアクセサリーもいっぱい集めていた。
そして、すみれの花言葉は誠実、謙虚。
すみれという名前を持つ以上、きっと、この花言葉は紐付けられるだろう。
名は体を表すというのだ。この花に、花言葉に負けてられない。
そういう意味では、名前の威力って予想以上にすごいのかもしれない。
2月から受講しているこのライティング・ゼミの課題で文章を書くようになったとき、ペンネームをどうするか迷っていた。
あれこれ迷った挙句、結局は本名のまま、いまも書いている。
本名を選んだ理由としては、28年この名前で生きているから。
そして何より、自分が書くものはこの名前の人生で作り上げられていると思うからだ。
また、大好きな小説『スロウハイツの神様』(同じく辻村深月著/講談社文庫)に登場する、画家の卵・森永すみれとの共通点である名前は残したかった。
辻村深月さんご本人が、ペンネームに綾辻行人さんの「辻」という名前をお借りしたように、憧れの人や好きな人の名前との共通点というのは、やはり嬉しいものである。
話は変わるが、前回書いた「うつ病になって変わった世界」という記事を思い返すと、あまりにも内容が体験談であり、自分の内面での葛藤だった。
もちろん、記事を書いたことに後悔はない。
しかし、わたしはいまも通院中の身である。
もしかしたら今後のことやあらゆるリスクヘッジを考えて、ペンネームも視野に入れたほうが良いかもしれない。
最初は自分でペンネームを考えていたが、しっくり来ず、これでは埒が明かない。
こういうときこそプロの出番だと思ったので、ココナラでペンネームと検索して評価が高かった方にお願いした。
今まで、占いと言えば星座や血液型でしか調べたことがなかったので、姓名判断とペンネーム作成というのはおもしろく感じた。
今後は有野 菫(ありの・すみれ)という名前で書かせていただく。
下の名前の読み方は同じなので、強く馴染むと言っていただけた。
ちなみにわたしの本名は、手塚治虫とそっくりらしい。
唐突に親近感がわいてきたので、漫画も読んでみたいと思っている。
手塚治虫といえば「トキワ荘」が有名だが、前述の『スロウハイツの神様』という小説は「現代版トキワ荘」とも言えるアパート・スロウハイツでの物語である。
その物語で、自分と下の名前が同じ子(=森永すみれ)が登場する。
こじつけのようだが、こうやって運命めいたものを感じるのは悪いことではないと思うのだ。
ペンネーム作成をお願いした方に、大器晩成型とおっしゃっていただけたので、いまはどんどんライティングを続けて力を付けていく時期なのだろう。
自分の名前とペンネームを味方につけ、今日もひたすら書いていく。
不思議なホテルと涙活
※フィクションです。
1年付き合ったのに、いつかは結婚すると思っていたのに、あっけない幕引きだった。
失恋をきっかけに体調を崩し、そこから身の周りのものが音を立てて崩れていった。
そんな折、数年前に泊まったホテルの系列店からダイレクトメールが届いた。
「瑞季 様
突然のメール失礼いたします。
わたしはこのホテルの支配人・春田と申します。
当ホテルは、以前ご宿泊いただいたホテルの系列店でございます。
以前のご宿泊からお日にちが空いておりますが、いかがお過ごしでしょうか?
さて、このホテルグループはおかげさまで開業30周年を迎えました。
そこで、今までお泊りいただいたお客様の中から抽選で、1泊分の宿泊券をプレゼントさせていただいております。
抽選の結果、瑞季様はご当選されました!おめでとうございます!
当ホテルは、「涙活」をテーマにしており、皆様のマイナスな感情を振り払うべく、存在しております。
どうか、当ホテルで少しでも癒されていただければ幸いでございます。
それでは、瑞季様のお越しを心よりお待ちしております」
……最初は怪しいな、新手の詐欺かと思った。
しかし今は休職中ということもあり、幸い、時間はある。
そしてあのホテルの系列店なら……と思い、赴くことにした。
電車を乗り継ぎ、駅から直通で出ているバスに乗る。
辿り着いた先、見た目はただのビジネスホテルのようだ。
ホテルのエントランスで立ち尽くしていると、長身の男性ホテルマンがやってきた。
「瑞季様でいらっしゃいますか?」
「そうです……あの、ダイレクトメールをいただいて……」
「良かった。来ていただけたのですね。当ホテルへようこそ。わたくしは支配人・春田と申します。よろしければ、フロントのほうへどうぞ」
そうだった。ここは入り口だ。
フロントに向かうと、外見の無機質な感じとは異なり、どこかナチュラルテイスト。
木々のぬくもりを感じる。
春田に指示され、チェックインの手続きを進める。
このホテルの中には、大浴場やスパなどもあるらしい。
「さて、当ホテルのご案内をさせていただきます。ダイレクトメールにも書かせていただいたとおり、当ホテルのテーマは涙活。瑞季様のマイナスな感情を振り払うべく、存在しております。明日の朝、チェックアウト時には、このホテルにそのような感情は置いていってくだされば、わたくしどもは幸いでございます。ホテルに滞在中は、気兼ねなくお過ごしくださいませ」
涙活、か。そういえば最近は泣くことも減ってしまったなぁ。
「お部屋は203号室でございます。お部屋にカウンセリングシートをご用意しております。簡単な心理テストだと思ってご記入ください。その結果によって、瑞季様にぴったりな涙活をご提供いたします」
最初から不思議なホテルだと思っていたが、至れり尽くせりだな……
エレベーターで2階へ向かい、203号室に入る。
「え!?めっちゃ広いじゃん!!」
スイートルームのように広々とした部屋。
廊下からだと、普通のシングルルームくらいにしか見えなかったのに。本当に不思議なホテルだ。
そういえば……と春田さんの言葉を思い出し、ゆとりのあるチェアに腰掛け、サイドテーブルにあるカウンセリングシートに記入する。
なんだか、精神科で受けたチェックシートに近いものがある。
記入後、フロントに電話した。
「こんなに広いお部屋……いいんですか?」
「もちろん。ちなみに仕切りを動かすと狭くもできますので、瑞季様の使いやすいようにご利用くださいませ」
春田さんに指示されたように、部屋を少し狭くし、また部屋を少し暗くした。
映画館に近いような雰囲気だ。
ちなみにこの部屋には、シーリングライトとプロジェクターが一体型になっているものが設置されていた。
YouTuberがこぞって買っていたやつだ……! と気付けば独り言をつぶやいていた。
理想的な暗さ、雰囲気、そしてアロマの香り。
泣ける準備はばっちりだ。
しかし、春田さんに言われたことを思い出した。
「涙活、と何度も言ってしまいましたが、なるべく気負わないほうが良いです。泣くぞ! って思うと、逆効果にもなってしまいますので」
ゆるやかな気持ちで、観始める。
2時間ほど映画を観ていた。ボロボロと泣いていた。
そういえば久しく、泣くことがなかった。
失恋し、不眠になり、休職して。ここ数ヶ月の記憶はほとんどない。
そのくらい、何か心を動かされることがなかったのだ。
今の状況になる前はもっと泣いていた。
泣くことはマイナスに思われがちだが、わたしの中ではストレス発散の一環だった。
そのことをすっかり忘れていた。
泣き終わったらすっきりして、スパに行きたくなった。
そのあとはホテル内の施設を探検したり、フロントで春田さんのおすすめを聞いたり。
気持ちがだいぶ切り替わったあとは、ベッドでゆっくりと眠れたのだ。
最近は睡眠薬が手放せなかったというのに。
携帯のアラームで目覚める。なんて素晴らしい寝起きか。
チェックアウト時、春田さんに尋ねる。
「どうしてこのホテルは、涙活をテーマになったのですか?」
「瑞季様も同様だったかと思いますが、このご時世で皆様、お疲れになっております。わたくしども観光業も少なからず、影響を受けております。しかしながら、一ホテルの支配人としてできることを考えたとき、皆様に少しでもゆっくりと休んでいただける場所の提供だと考えたのです」
「ありがとうございます……だいぶ参っていましたが、元気になれました。泣くことができるって、幸せなことですね」
「それは良かったです。こちらこそ、ありがとうございました」
そう言って、春田さんは見送りの準備を始めた。
「あの、本当にお支払いは良いんですか……?」
「はい、お代金は結構です」
「あんなに良いお部屋だったのに!?」
「構いません。モニターのようなものだと思っていただければ」
来たときと同じように、不思議な気持ちになったが、そういうものなのか……? と言い聞かせ、エントランスまで送っていただいた。
「ご利用ありがとうございました。道中、お気をつけてお帰りくださいませ」
姿勢よく頭を下げた春田さんにお礼を言い、駅まで直通のバスに乗る。
どこからか、セミの鳴き声が聞こえる。
夏が始まったようだ。
きっと、これからも前を向いて生きていける。そう思えた出来事だった。
「書く」ために生きる
情報過多の現代、ありとあらゆるところにあふれている「活字」。
気付けば活字を読んでいるという、いわゆる「活字中毒」の方もいらっしゃるのではないか。
ご多分に漏れず、わたしもその1人である。
始まりがいつのことなのかもう思い出せないが、物心ついたときにはすでに活字中毒だった。
小説はもちろんのこと、日常生活でも活字を欲する。
例えばパンを食べながら、使ったマーガリンのパッケージに書いてある表記などを読んでいた。
今も、普段から活字を目が追いかける(追いかけてしまう)日々である。
「書く」ことで思い出す、最初の出来事は小学5年生のときのこと。
頭の中で物語を考えて、文章に書き起こしていた。
ある意味、黒歴史である。
当時のわたしの頭の中では、謎の妄想が繰り広げられていた。
そのフィクションにもならないような物語を作り、クラスの女子に回し読みさせていたのだ……。
やっぱり黒歴史だった。
どこから思い付いたかも思い出せないような、いま思うと恥ずかしい物語。
あれは中二病ならぬ、小五病だった。
あの出来事から15年以上が経った。
3年ほど前、とあるオンラインサロンで知り合った方たちと、書評サイトをスタートした。
今まではほとんど書評を書いたことがなかったが、手探りで進めながら、書評というものに触れていった。
話が前後するが、小学生の頃のわたしは、読書感想文が非常に苦手だった。
前述のとおり物語を書いて遊んでいたのに、感想文ではあらすじ以外の何を書いていいのかわからない。
自分が感じたことを並べたとて、読んでいない人には伝わらないのでは……?とも思っていた。
そんなわたしが書評を書きはじめて、ようやっとあの頃の自分にはできなかった「本の感想や良さをいかに伝えるか?」ということを、少しずつ理解していった。
もちろん書評は、もともとの小説などがなければ成立しない。
その作品を最大限に活かして良さを伝え、かつ自分の気持ちが文章に乗ったときは、堪らなく気持ちよかった。
いわば、ジグソーパズルのピースがピタッとハマったような気持ちになった。
そんな折に見つけたのが、天狼院書店のライティング・ゼミである。
普段は書評を書いているがマンネリ化してきたこと、何よりきちんとライティングを勉強したい!と思ったことが受講のきっかけになった。
ライティングについて教わることはもちろん、非常に勉強になっている。
それ以外にも、今こうやって書いていることや頑張ったことを評価してもらえること、共有できる相手がいることも嬉しい。
そして切磋琢磨できる仲間がいることも、学生時代の部活のようで懐かしく感じる。
今ここで書いているように、自分の考えていることを文章に書き起こすことで、自分自身を客観的に見つめ直すことができる。
書き起こすことで、「わたし、こんなこと考えていたんだなぁ」と思うこともあるのだから不思議だ。
コロナ禍でうつ病になったときには1番の問題であった、頭の中でぐるぐるしていた思考。物事を反芻し、考えすぎてしまった思考。
逆にそれが、今のわたしのライティングの武器になっている気がする。
文章は、自分の分身みたいなものだと思っている。
悩んで悩んでひねり出した、分身。
だから、もっともっと感性も研ぎ澄ましていきたい。
人々の心に響く言葉を紡いでいきたい。
そのためにはきっと、インプットが欠かせない。
今まではただ「好きな小説」だったものが、「作家が丹精をこめて作った贈り物」のように感じられるようになった。
そして「好きな作家」は「憧れの人」になっている。
昔から、活字を読むことが好きで、文章を読むことが好きだった。
文章を書ける人に憧れ続けていた。
いつかは文章が書けるようになりたいと思っていた。
その夢に近づけるのが、天狼院書店のライティング・ゼミなのだ。
せっかくその夢に近づくチャンスを手に入れているのだから、このライティング・ゼミを通してどんどん学び、吸収していきたい。
いま、わたしは「書く」ために生きているのかもしれない。
そう思えるほど、ライティング・ゼミでの課題になりうるものを、日常の端々で見つけることに楽しさを覚えている。
今すぐはネタにならなくても、いつかは過去の自分に助けられるだろう。
そうとらえると、日常はライティングのネタの宝庫なのだ。
日常の出来事を見つめ直し、自分自身と向き合うこと。
そうすれば、何気ない日々も輝くと思う。
アート小説と、運命の画家との出会い
皆さんは絵画を見て、恋に落ちたような気持ちになったことはあるだろうか。
美術にさっぱり興味が無く、アートとは何ぞや?と本気で思っていたわたしだったが、その考え方が一気に変わった出来事についてお話する。
わたしは読書が好きだ。
本を読むという受動的な行為はもちろんのこと、その本をきっかけに新しいものに興味を持ち、世界が広がるのが楽しい。
わたしの中で、最たる例が「ア―ト」だった。
今までは美術が大嫌いだったが、小説という切り口から入り、アートっておもしろいかも……と思わせてくれた。
そのきっかけをくれたのが、原田マハ 著『楽園のカンヴァス』だった。
MoMA(ニューヨーク近代美術館)のキュレーター・ティムは、ある邸宅に招かれ、そこでルソーの名作・「夢」 に酷似した「夢を見た」という絵画を見せられる。ティムと日本人研究者・早川織絵で、その絵画の真贋を見定めるという物語である。
真贋判定するにあたって、手掛かりとなる謎の古書を読みながらストーリーが進んでいく。
ページを進めていく中で、ルソーの物語と2人のいる時間が交錯し、自分はどこにいるのか?この小説は本当にフィクションなのか?と思うほど、のめり込んでしまう。
そして何より、疾走感があって読者にどんどん読ませる力がある。
『楽園のカンヴァス』を通じて、画家の生涯や、画家自身の人間性を、そしてアート作品の背景を小説という形でも触れることで、少しずつアートそのものに興味を持ち始めた。
そして、こんなに美術を避けてきたわたしを、アートは広い心で包み込んでくれた。
感激した。
そこから、マハさんのアート小説を読み漁った。
そこで出会ってしまった、わたしの運命の画家。
びっくりした……
心を奪われた。恋かと思った。
37年の人生のうち、画家として絵筆を握ったのは、10年にも満たない。
その間に、今や世界中の人々を魅了する作品を残した孤高の天才。フィンセント・ファン・ゴッホ。
しかし彼の絵は、生前1枚しか売れなかったという。
いまやゴッホの絵画は、億単位で取引されているというのに。
わたしとゴッホの出会いは、おなじく原田マハ 著『たゆたえども沈まず』だ。
丁寧に丁寧に紡がれる物語は、読み返すたびに感極まる。
この小説では、ゴッホ(フィンセント)と弟・テオドルス、そして日本人画商・林と加納の交流が描かれている。
フィクションの世界の中で、日本人画商2人との出会いが、大きな影響を与える。
しかし、実際にはどの文献にもゴッホと林が出会った形跡はない。
それでも、同じ時期に同じパリという地にいた彼ら。
マハさんはそうやって、史実と創作を掛け合わせることが本当に上手なのだ。
あの頃のゴッホは周りから認められず、疎まれていた。
不器用で独りよがり。何をやってもうまくいかず、弟のテオにすがってばかり。
そんなゴッホが、わたしは愛しくて堪らない。
わたしは前世、ゴッホの友達か何かだったんじゃないか?と妄想するほど、彼に引きつけられる。
『たゆたえども沈まず』はフィクションではあるけれど、ゴッホにも林や加納のような、後押ししてくれるような友人がいてほしい(いてほしかった)と、願わずにはいられない。
『たゆたえども沈まず』を読んで、2度、ゴッホ展へ足を運んだ。
休日ということもあって大行列で、あらゆる意味で日本でのゴッホ人気を感じる。
ゴッホの作品は、筆遣いや色使いを凝視しているだけで、彼が絵画に込めた力のようなものを感じる。
生で観ると、涙が出そうなくらい感激してしまう。
アートにももちろん、制作過程がある。
その画家の生まれ育ったバックグラウンドもある。
小説や、また展示の音声ガイドなどから背景を知り、それらに思いを馳せる。
それだけできっと、ただ観るだけでなくさらに深いところでアートを感じ取れる気がするのだ。
何より、ゴッホが憧れ続けた日本の地で、世界中のゴッホの作品を見られること。
本物を観られる機会のため、尽力してくださる方々に、心から感謝である。
そしていつか、『たゆたえども沈まず』の表紙になっている「星月夜」を、MoMAにて直接観に行くと心に決めている。
マハさんは「アートは友達、美術館は友達の家」と表現する。
そんな感じで、美術館も気軽に行っていいと思うのだ。
友達の家なのだ、気負うことはない。
ゴッホの死後から130年ほど経ったいま、世界中で、彼の絵画が愛されているということが、ファンの1人としてとても嬉しい。
これからもゴッホの作品が、末永く愛されますように。
20歳を過ぎてから楽器を始めるということ
「大人になって楽器を始める人って何考えているんだろう。下手くそな音しか出せないし、プロになれるわけでもない。迷惑って気づかないのかな」
数年前、とある場所で見つけた言葉。
だいぶ記憶が曖昧だが、衝撃的な文章だった。
というのも、わたし自身、大人になってから楽器を始めたからだ。
23歳になった年に楽器を始めた。アルトサックスだ。
きっかけは、ただのあこがれだった。
弟や、男友達がギターを弾くのをみて、いいなぁと思ったこと。
ピアノ以外にもうひとつ、楽器ができたら素敵だろうなぁと思ったこと。
そして、好きなロックバンド・UVERworldのサックス奏者・誠果氏が格好よかったこと。
そんな単純なあこがれだった。
サックスといえば、ジャズのイメージも強いだろう。
たしかにジャズで聴く、サックスの音色はめちゃくちゃ格好いい。
わたしが最初にあこがれたのは、ロックの中で聴くサックスの音だった。
それは大人な響きで、ロックという強い音の中に刺さる。それにハマった。
わたしが通っている楽器教室には、いくつもの楽器コースがある。
その中でサックスを選んでよかったと思うことは、自分で演奏しているというのを感じられること。
自分で息を吹き込み、自分の指がキーを押すことで音を奏でる。
体全体を使って吹いている気がするのだ。
大人になって楽器を習うメリットは、いくつもあった。
まずは、できなかったことができるようになること。
これは何でもそうではあるが、苦手を克服できたこと、1曲吹けたこと、など、前に進めたときはやっていてよかったと思う。
そうやってこれからも、成功体験を積み上げていきたい。
その他としては、周りの人に聴いてもらう機会があること。
通っている楽器教室では、アンサンブルが多くある。
特にサックス人口が多いので、サックスだけでの合奏も参加し、発表会にも何度か出た。
大勢でひとつの曲をつくるというのも、青春を感じて、何ともいい。
逆にソロで演奏してみると、緊張しつつも吹き終わったあとの拍手を独り占めできた。
あれも気持ちよかった瞬間だ。
そして何より、友達が増えたこと。
やはり大人になって楽器を始める方は、わたしより年上の方が圧倒的に多い。
そのため、年が離れた友達も多くできた。
一緒に吹きながら学べることは、いっぱいあるのだ。
最初の先生の勧めで、いまの楽器を買ったのはサックスを吹き始めて1年半経った夏だった。
結局、先生と同じ楽器を買ったのだが、金額を見てびっくりした。
ローンを組んで、2年かけて完済した。
いまの楽器を選んだ理由は、先生が高校時代からずっと使っているということだった。
そして良い楽器は自分と共に成長する、とも教えてくれた。
しっかりした楽器はそこそこ値が張る。維持費もかかる。
それでも、ここまでお金をかけてしまったから、続けるしかないとも思う。
大人になると、壁にぶつかってもうまく避けたり、はたまた、その壁にぶつからないように回避したり……と、良い意味でも悪い意味でも器用になってしまう。
だからこそ、未知の出来事と自ら向き合い、壁にぶつかり、立ち向かい、そして乗り越えるという経験は、この先も活きてくるはずだと信じている。
それこそが、サックスを通して学んだことだ。
最初に載せたショッキングな文章を見て、数年が経った。
いまだからこそ言えることは、これはただの自己満足だということ。
音を楽しむと書いて音楽。自己満足で音を楽しんでいるだけ。
誰のためでもなく、自分のために。
楽器は手段でしかない。音楽を楽しむために、楽器を吹いていると、胸を張って言える。
前述のUVERworldのボーカル・TAKUYA∞氏の言葉に、わたしはよく感化される。
彼は、「何かを始めるのに遅すぎることは何もない」とライブで叫ぶ。
ちなみにTAKUYA∞氏は20歳を過ぎて歌を始め、ピアノは24歳から始めたそうだ。
彼は体現する。
年齢で諦めるのではなく、やりたいという気持ちこそが大事なのだと。
また感化され、今年も新しいことを始めたくなり、いまライティングを勉強している。
そして、春からは英会話を勉強するつもりだ。
いまはまだ、楽譜をなぞって演奏することで精一杯ではあるが、ゆくゆくは届けたい人に届けられるよう、一音一音大切に吹けるように精進したい。
この文章がどうか、年齢や才能で何かを諦めかけている人に届きますように。
残った日々の中で、1番若いのは今日なのだ。
「秘めフォト」は脱皮のようなもの
2021年早々に、自分の価値観が大きく変わった出来事があった。
その現場は名古屋天狼院書店。
参加したイベントは、女性限定の「秘めフォト」だ。
初めて天狼院書店のことを知ったのは、三宅さんが語る、恩田陸さんの記事がきっかけだった。
http://tenro-in.com/articles/team/32148
この記事が非常におもしろく、ここからわたしは恩田陸小説にハマったことから、「そもそも天狼院書店とは何ぞや」と興味を持ち始めた。
いつか行きたいと思っていた矢先、名古屋の久屋大通公園の再開発で、天狼院書店が出店すると聞いた。早速 遊びに行った。
天狼院書店では書籍も興味深かったし、いただいたご飯も美味しかった。
しかしそこでわたしが1番気になったのは、「秘めフォト」という撮影サービスの告知であった。
そこに貼り出されたチラシに載っていた女性は、セクシーでドキッとするくらい美しかった。
家に帰ったあとはGoogleで「天狼院書店 秘めフォト」と検索し、何度もページを見に行った。
そのページから引用すると、秘めフォトとは、<自分史上最高にSEXYな1枚を撮る、女性限定のまったく新しいフォトサービス>だという。
イベント詳細ページによると、その秘めフォトに参加した方からの、結婚や妊娠の報告も多いとのこと。
「写真を撮るだけでしょう?結婚や妊娠ってどんな因果関係があるの?」と正直、半信半疑だった。
わたしの背中を押したのは、天狼院書店で見た告知チラシの衝撃と、リピート率86.5%という数字だったかもしれない。
秘めフォト当日。
感想を一言で言うと、楽しかった。
本当に楽しかった。
告知チラシの女性や、イベントページに写真が載っている方も大抵 脱いでいたが、最初はまさか自分がカメラの前で脱ぐなんて、考えられなかった。
しかし、秘めフォト全体の空気が、自分を開放的に、自由にする。
三浦さんがカメラのシャッターを切るたび、三浦さんからも、周りの女性たちからも、「その表情、良いね!」「すてき!」と言っていただけた。
その声が気持ちよかった。
最初は敬遠していたが、どんどん見られたくなるし、撮られたくなるのだ。
本当に、不思議なことに。
太くて恥ずかしいとずっと思っていたお腹や太もも、お尻。
太ももにある、ほくろの塊。
全部嫌いだったのに、それすら認めてもらった。
いつからこうなったのか今ではもう覚えていないが、これまでのわたしは自己肯定感がとても低いままで生きてきた。
自分で自分を認めることが、うまくできなかった。
承認欲求に苛まれ、「他者から必要とされたい」という一心で、彼氏でもない男に抱かれた夜は何度あったことか。
それでも心は満たされなかった。
秘めフォトを経験して、できあがった自分の写真を見て、「もしかしてわたしもセクシーなのでは……!」と思えた。
傷もほくろも、気になる体も、それらすべてを引っくるめて自分ということに気づく。
自分を肯定できるようになった、貴重な機会だったのだ。
秘めフォトを体験して1ヶ月以上経ったいま、改めて思うことは、「秘めフォトは脱皮に近い」ということ。
そう、自分の殻を破るのだ。
そしてわたし自身、自分の中の、「こうあるべき」といった固定概念をすべて取っ払えた。
体験のあとから続けている筋トレがもっと効果が出てきたら、また秘めフォトで撮ってもらおうかな。
そのときは小道具も持っていこうかな。
……そんなことを考えていると、もっと撮られたくなって、気持ちは前向きになる。
秘めフォトは、日々を乗り越える力になるのだ。
秘めフォトのあとの結婚・妊娠報告に因果関係は無いと、三浦さん本人もおっしゃっていた。
たぶん、次はもっと綺麗に撮ってもらいたいと自分磨きするといった行動が、繋がっているのではないだろうか。
もしかしたら秘めフォトは、自己プロデュースの一環のように作用しているのではないか。
わたしの身には報告できるようなことは起きていないが、自分を好きになれた。
もちろん、秘めフォトでの撮影がきっかけだ。それは誇っていいだろう。
今年のわたしの目標のひとつが「視野を広げる」だ。
まさに秘めフォトは、視野を広げるきっかけになっている。
その延長でいま、ライティング・ゼミを受けている。この人生、なかなかおもしろい。
自分を好きになれたことで、やりたいことも増えている。
コロナ禍で鬱になったときとは考えられないくらい、自分自身も前向きになっている。
そんな力が秘めフォトにはあるようだ。
高リピート率にも納得。
友達にもぜひ勧めたいフォトサービスだ。
献血は自己肯定の近道
まず皆さんは、献血と聞いてどんなイメージをお持ちだろうか?
痛そう、出血怖い……など、どちらかというとマイナスなものが挙げられるだろう。
そして皆さんの中にも、街頭でプラカードを持った方が、「献血にご協力お願いします~」と呼び掛けているのを見たことがある人もいるのではないだろうか。
定期的に献血に通っている方ならまだしも、初めての方や数回しか行ったことがない方にとって、献血はなかなか敷居が高いのも想像できる。
特にコロナ禍で外出自粛となったこともあり、献血にご協力いただける方がかなり減っていると聞く。
わたしの元にも、献血の依頼メールが来た。
このように、協力したくてもできないジレンマから、今回は献血について書くことにした。
わたしと献血の出会いは10年前。18歳の頃まで遡る。
もともと父親が献血に協力的であり、地元のイオンに献血バスが来るたび献血に行っていた。
その影響からか抵抗もなく、自分自身も18歳の誕生日を迎えてすぐに献血した。
初めての400ml献血は、スムーズに終わった。
針の太さには驚いたが、見知らぬ誰かの助けになるかもしれないという希望が大きかった。
献血と聞くと、交通事故のときの輸血というイメージが強いかもしれないが、実際は白血病や がんなどの治療で使われるそうだ。
抗がん剤治療で免疫力が下がったときに輸血をすると、頬に赤みがさすような、そんな感じだと聞いたことがある。
大学に入学し、献血ルームに行ったことがきっかけで参加するようになったのが、学生献血推進協議会だ。
特にこの団体では「10代、20代を中心とした若年層への献血参加や認知」を目的としている。
わたしは大学入学から卒業まで、この団体でお世話になった。
街頭で献血参加を呼び掛けたり、献血のイベント等に自分自身も参加したりすることで、献血に対する意識がより高まった。
同時に、同じ志の友達も増えた。
血液というのは、今も人工的に作ることはできない。
昔は売血というのもあったようだが、結果的にお金目的となってしまい、必要な方に届けられなくなったとも聞く。
それにより、現在は善意のボランティアである。服薬や体調も自己申告だ。
また、血液は長期保存できない。
そのため、継続的な協力が輸血用血液を確保するのに支えられている。
献血のイベントなどを通して、白血病から復帰された方から「献血をしてくれてありがとう」という言葉を聞くたび、献血に関わってよかったと心から思うのだ。
大学時代に参加した献血のイベントで、「自分にとっての献血とは?」と何度か聞かれたことがある。
当時は「ライフワークです」と答えていた。
自分の人生を通して、できる範囲で貢献したいからだ。
趣味のひとつでもあるし、いまの服薬が終わったらすぐにでも協力したい。
少しの痛みと時間でどこかに助かる人がいるなら、今後も参加したいと思っている。
理由は同じ。
自分が少し我慢することで、助かる人が必ずいるのだ。喜んで捧げたい。
献血に協力するたびに、もしかしたら自己肯定の近道なのかもしれないと、考えるようになった。
血液だけとはいえ、その瞬間は自分自身を必要とされている。
どこかの誰かの体で、自分の血液が巡っている。
こんなに本質的に必要とされる機会は、なかなかないかもしれない。
もちろん、みんながみんな、献血に協力できるわけではない。
ヘモグロビン値が低い場合や、服薬や歯科治療後の場合、その他ピアスを空けたての場合など、できない条件もある。すでに輸血を受けたことがある方もNGだ。
それらはすべて、輸血を受ける患者さんの安全性のためである。
わたし自身が今も献血について発信する理由は、いつか自分や自分の家族が輸血を必要とする状況になるかもしれないから。
だからこそ、献血に協力できる間は協力したいと考える。
献血に協力できる期間は限られているし、健康じゃないと献血できない。
今、わたしの左腕にある献血痕は、なにかの勲章みたいに感じている。
もう一度言おう。
献血にご協力できる方、一歩踏み出してみてはいかがだろうか?
※記事中の献血についての内容に関しては、日本赤十字社の方に目を通していただいております。